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3代目誕生――継承は、挑戦の先にある
二〇〇〇(平成12)年3月5日、私、開人(かいと)がこの世に生まれる。
その日、父と祖父は、職人や協力業者とともに慰安旅行に出かけていた。
宴会場で乾杯をした直後、
「男の子が生まれたぞ!」という一報が旅館に届いた。
「おめでとう!」
宴会場には歓声が上がり、父と祖父の盃には、次々と酒が注がれる。慰安の宴会は、3代目誕生の祝賀会となる。当時若かった職人さんたちも、今ではベテラン。
「3代目誕生やな!」と声が上がったその日のことを、今でも楽しそうに、懐かしそう
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に話してくれる。
開く人、開人。
「自分の人生を、自分の手で切り開いていける人になるように」
父はそんな願いを込めて名付けてくれた。幼い頃から、祖父と父の背中を見て育った。鉋が木肌をなぞり、鑿が梁を割っていく音が、毎日の暮らしの音になっていた。その姿に憧れて、「いつか大工になる」と思うことは、男の子にとって、ごくごく自然の流れだった。私が小学生になる頃に完成する二代目の自宅。その出来上がるまでの様子は、しっかりと憶えている。
その祖父と父が字通り自らの手で建てた〝わが家〟も好きだった。伝統的な日本建築。屋根では鬼瓦が睨みを利かせる。三世代が暮らすのに十分な広さだ。食事は家族全員揃って。休日になると座敷や庭は友だちたちの遊び場になる。山で捕ってきたクワガタ、カブトムシ。
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川からはザリガニ、亀たち。みんな遊び相手。今の時代にはそぐわないかもしれないが、そんな平和で穏やかな原風景が、私が考える理想の家づくりの原点であることは間違いない。
大学進学を機に地元を離れ、滋賀で下宿生活を送るようになっても、長期の休みになると、迷わず実家に帰った。そして、現場に立った。羽を休めるわが家がある。父の会社、祖父の仕事の役に立てることも嬉しかった。
そして、そこには一人の特別な友人がいた。中学生の頃、毎日一緒に登下校した親友。彼もまた大工に憧れ、見習いとして福井工務店にやってきた。夏休みや冬休みは、ふたりで汗を流し、墨を付け、材を運び、祖父に叱られながらも笑い合った。
将来、私が会社を継いだとき、彼が職人として一人前になって、自分を支えてくれる。そんな未来を、心のどこかで信じていた。だからこそ、大学の勉強にも打ち込めた。『夢』があったから、頑張れた。
けれど、彼は辞めていった。祖父が守ってきた昭和のやり方――それが、彼の心には重すぎた。時代に合わない厳しさが、彼の足を、心を遠ざけた。
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当時、大学生だった私は、社会の厳しさなど、まだ何も知らなかった。かけられる言葉など、何ひとつ持ち合わせていなかった。ただ、彼にあまりにも厳しく接しすぎた祖父に、電話越しに怒りの言葉をぶつけたことだけは、よく覚えている。
悔しかった。悲しかった。
彼との関係は、今でこそ修復したものの、あの時の痛みは、今も胸の奥に残っている。そして、自分が信じていた、描いていた未来が崩れたことが、苦しかった。だから思った。
「もう、誰にもこんな思いはさせたくない」
せっかく魅力のある職業なのに、育て方や関わり方次第で夢が潰えてしまうなんて、もったいなさすぎる。若い職人が、職人としての誇り、プライドを持って、胸を張って働ける会社にしたい。それが、自分がこの会社を継ぐと決めたいちばんの理由だ。
子どもの頃から高校までは野球に打ち込み、立命館宇治高校では捕手として甲子園を目指し
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した。そして立命館大学に進み、二〇二三(令和5)年3月、理工学部建築都市デザイン学科を卒業する。
大学では「生産・材料研究室」に所属。神社仏閣などの「伝統木造建築の補修と維持管理」について研究し論文を書いた。独学で宅地建物取引士資格も取得した。
卒業後は、一旦、他社での修行、いわゆる〝他人の飯を食う〟ことも必要だと考え、住宅販売に強い東京の不動産デベロッパーを志望し、内定をもらう。社長が一代で築き上げた上場会社。急成長している姿、社長の人となりも魅力的に見えた。
内定者インターンとして、いきなり住宅営業の最前線へ。地価の高い東京。〝不動産〟としての住宅、資産価値に力点を置いたセールス。ビジネスモデルとしては新しいが、営業スタイルは〝昭和〟だった。〝夢や暮らし方を売る〟という自分がイメージしていた住宅販売とは違う。この会社で得るものは、自分にとってプラスではなく、マイナスになるようにも思えた。
結局、福井工務店への就職を選んだ。既に、父が祖父から社長を引き継いでいた。翌年、創業60周年を迎えるという節目の年でもあった。課題は山積みだった。職人たちの年齢層が高く、活気に欠ける。技術はあるのに、次の世代に伝わっていない。伝えるべき若手がいない。
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い。営業も、採用も、情報の発信方法も、すべてが時代に取り残されていた。
このまま何もしなければ、会社はゆるやかに、確実に衰退していく。私の入社時、最年少の職人が私より25歳年上だった。親子ほどの差だ。このままでは、この人が引退する頃、会社は終わると本気で思った。
正直な気持ちを父にぶつけた。すると、意外な言葉が返ってきた。
「俺が代表でいるうちは、問題が大きくなる前に俺が尻拭いしてやる。俺はもう還暦も近いし、新しいことには疎い。でも、お前の会社になるんやから、会社の未来に必要やと思ったことは、なんでも好き放題やったらええ」
背中を押された。「俺の言う通りにしろ!」親父から抑えつけられた自分の過去を、私には味わわせたくなかったのだろう。その気持ちが、何よりもありがたかった。男として、親としてのかっこよさ。経営者としての覚悟と器の大きさを感じた。同時に、気が引き締まった。
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「よし、とことんやってやろう!」。そう決意した。
第一歩は「採用」だった。学生時代に、SNSを中心としたWebマーケティングのサービスを提供する会社を友人たちと起業していた。株式会社 侍。「大企業の新卒採用」に特化したSNS運用や動画制作の営業担当取締役として実績も上げていた。この経験で培った知見を活かし、自分自身が先頭に立って情報発信を始めた。
SNSで、大工の仕事の〝リアル〟を伝える。汗の滲んだ作業着の中に隠された誇り。日に焼けた腕とともにある匠の技。木と語る静かな時間。何事にも感謝する心や技術の奥深さ、ひたむきさ、かっこよさまでを、正直な言葉と映像で紡ぎ、届けた。
狙いはただひとつ。
「この世界に飛び込みたい!」と思ってくれる若者との出会いだ。
するとある日、「会社見学に行きたい」と、一本のDMが届いた。とても素直なメッセー
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ジだった。嬉しかった。けれど、正直なところ、不安もあった。父の代までは、ほとんどが身内の紹介などによる採用だった。
当然のことながら初対面。「どんな子が来るんやろ?」。父もソワソワしている。そして実際に顔を合わせたその青年は、期待以上だった。即採用だ。ベテラン職人たちは、久しぶりに入ってきた〝弟子〟を心から歓迎してくれた。父も「若くても大工になりたいと思ってくれる子がいるんやな」と表情を崩した。やり方を変えれば、新しい道は開ける。可能性が広がる。
逆に言えば、「挑戦」しなければ生き残れない。新人職人の姿を見ながら、私は改めて覚悟を決めた。もちろん、すべてを変えるつもりはない。どんな時代になろうとも、自社職人を雇い、育て、自分たちの手で家を建てるという在り方――それだけは、絶対に変えることはない。
3代目は「守り人」だと言われることがある。また、「3代目が会社を潰す」とも、よく言われる。
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「3代目に生まれて羨ましい」「人生安泰だ」と、軽く冷やかされることもある。だが、私には私にしかわからない重さ、しんどさがある。それを誰かに理解してもらいたいとは思わない。わかってほしいと願うことも、もうやめた。
ただひとつ。私は、自分が信じる理想の会社を、自分のこの手でつくりたい。そしてその日まで、無我夢中に仕事と向き合うのだ。
福井工務店は創業60周年を迎えていた。とはいえ、記念事業や式典などを開催するわけではない。
私の中では、「挑戦、変化への覚悟」が60周年を記念する決断だった。
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挑戦こそが、継承を成功に導く。
父の言葉を胸に、父やベテラン職人たちの想いとともに、
私は、福井工務店の未来を自分の手で切り開いていく。
それが、父が「開人」という名前に込めた想い、託した気持ちに応えることだ。
この会社の未来を切り開くことは、自分の人生を切り開いていくこと。
そしてそれは、地域や地元の人たちへの恩返しにも繋がるということを、
胸にしっかりと刻んでいる。
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3代目の決断――仲間と、地域と、新しい福井工務店へ
採用活動には、引き続き力を入れていた。また、新たな若い職人が、夢を抱いて福井工務店の門を叩いてくれる。その姿に、私は確かな希望を感じた。
SNSで発信した動画を見て、やってきた青年。土木職人からの転身。私より二つ年下。初めは不安もあったが、現場での彼の姿に心を打たれた。誰よりも一生懸命、誰よりも真っ直ぐだった。
1年後には、さらに年下の若者たちが加わった。彼らもまた、ものづくりが好きで、よく働き、よく笑った。気づけば、会社に活気が生まれていた。現場には、木を刻む音とともに、若い職人たちの掛け声や笑い声が響くようになった。元気な言葉が飛び交い、笑顔が増えていった。
私は二人兄弟。妹しかいない長男だった。だから、弟ができたようで、彼らの存在が本当に嬉しかった。心から可愛がった。そして、彼らが来てくれたことで、私は現場から一歩身
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を引くことができた。
彼らの将来を支え続ける「会社の器」は、まだできあがっていない。次の課題に、ようやく目を向けられるようになる。
給与や福利厚生、商品力、ネットワーク。何もかもが、足りていない。若い職人が自信と誇りを持って働ける会社でありたい。堂々と胸を張れる組織、待遇。他所とは違う、「さすが!」「なるほど!」と言われる家を建てる会社でなければならない。意識だけでなく、会社の在り方そのものに大改革が必要だった。
何より、商品としての決定的な〝強み〟がなかった。コアコンピタンスといわれる真似できない能力。ハードの質には自信を持っている。ただ、間取り、仕様、価格帯…。ソフト面から見ると、ある意味〝どこにでもある普通の家〟を建てていた。「これは売れる」「これは伝わる」と確信できる競争力のある〝武器〟を、まだ持っていなかった。
私は思った。
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“時代を先取りするような、住む人がワクワクするような、もっとカッコいい家”をつくらないといけない。
もっと暮らしやすくて、もっともっと、人の心に響く家をつくりたい。
一方で、国連が二〇三〇年を目標とするSDGs(持続可能な開発目標)を掲げたこともあり、住宅にもより進んだ性能、思想が求められるようになっていた。自分たちだけでどこまでできるのか。一度は、名前の売れているフランチャイズに加盟しようかと、真剣に検討もしてみた。でも、どこか腑に落ちない。
そうしたとき出会ったのが、4DGROUNDWORK の塚本光輝社長だ。きっかけは、オンラインで参加したあるセミナー。その中で彼が語った内容に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「デザインの原理原則に基づいた、カッコよくて暮らしやすい家を、分譲住宅のような価格で一般顧客層に届けたい」
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その言葉に、強く共感した。私が感じていたモヤモヤを、すべて言語化してくれていた。
「今の住宅業界は、効率と利益を優先するあまり、〝本当にいい家〟を届ける力を失っている」
それに対し塚本社長は、既に20年前から、ハウスメーカー・建築家・工務店、それぞれの〝いいとこ取り〟を実践。機能性・デザイン性・コストパフォーマンスを兼ね備え、圧倒的な競争力を持つ家を市場に送り出していた。
「この人と仕事がしたい」
そう思った私は、オンラインセミナーの質疑応答の時間に挙手し、その場で「会いに行きたい。直接話がしたい」と申し出た。塚本社長は驚いた様子だったが、快く応じてくれた。
メッセージのやり取りを経て、1週間後、二〇二四(令和6)年3月3日。私は東京行の
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新幹線に乗り込む。目指すは、浅草にある4DGROUNDWORK のオフィスだ。
持参したのは、自社が取り扱う土地分譲の計画、現在進行中のプラン。未来に繋がる何かが生まれる予感。全部さらけ出そうと思っていた。
ひと通り話が終わった後、塚本社長はこう言ってくれた。
「こんなに若くて、やる気のある子は久しぶりだ。
設計も教えるし、お客様との打ち合わせの席にも出よう。
一緒にやろう。奈良でいちばんカッコいい家を建てる工務店になろう。
1〜2年後には、君も僕と同じプレゼンができるようになっているはずだ」
嬉しかった。そして、自分自身に誓った。
この人と一緒に、未来を変えたい。絶対に変えてやる。
それは、これから出会う、まだ見ぬお客様、施主様家族の未来。そして、私を信じて付いてきてくれるこの会社のメンバーたちの未来だ。
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協業にあたり、塚本社長はこうも言った。
「まずは君と僕が、何をしようとしているかを、みんなに知ってもらおう。
理解、共感を得て、応援してもらわなきゃいけない。
君の大事な人を集めてくれ。僕が奈良まで行って、プレゼンするから」
私はその言葉に応えた。お客様、協力会社、職人さん、知人、友人。3週間で、36人を集めた。定員30人の会場には、立ち見も出た。
大盛況だった。会場の空気は熱気に満ち、真剣に耳を傾けてくれる人たちの眼差しに、私は心を動かされた。
「みんなが応援してくれている」。胸が、身体が熱くなる瞬間だった。
そしてその日、私たちは宣言した。
「4D/STUDIO NARA」として、ここ奈良の地で新しい家づくりを始める。
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ただの業務提携ではない。思想と設計、地域と人、すべてを融合させる。宣言は、塚本光輝、福井開人、互いの決意、覚悟の意思表明だった。
私はその日から、「いい家とは何か?」という問いに、真正面から向き合うようになる。それは、会社に、私に与えられたミッションの再定義の始まりでもあった。
セミナーの参加者の一人に、仲介会社から紹介されたK様という30代のご夫婦がいらっしゃった。もともと地元エリアで住まいを探しておられ、いわゆる「普通の家でいい」と考えているご夫婦だった。私が直接お声がけし、セミナーにご参加いただいた。終了後、事務所でヒアリングを行ったとき、K様はこう言ってくださった。
「自分たちは本当に運がいいと思っています。仲介会社さんを通じて、福井さんと塚本さんに出会えたことが、何よりのご縁です。今日の話を聞いて、これからの家づくりがとても楽しみになりました」
ご契約をいただき、K様の家づくりが始まった。私たちがご提案したのは、塚本さんが
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ずっと大切にしてきた思想。「明るくて、抜け感のある住空間」0LDKに隣接する中庭には、小さな紅葉の木を一本植えた。
家の中に居ながらも、季節の変化を感じられるように――。冬にお引き渡ししたとき、その紅葉は葉を落としていた。
少しの時が流れ、春が来たある日。ちょうど、小さな紅葉に青い葉が生い茂る頃。K様から、嬉しいご連絡をいただいた。
「最近、家にいて、雨の日が楽しみになったんです。中庭の紅葉が雨に打たれている姿が、とても美しい。その様子をリビングから見るのが、本当に楽しみなんです」
その声からは、静かな感動、確かな満足を感じ取ることができた。自然と暮らしが寄り添い、ただ〝住む〟を超えて、〝愛おしく思える日常〟がそこにある。
まだ、秋は一度も迎えていない。K様は言った。
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「今度は、中庭の紅葉が赤く染まるのが楽しみで、楽しみで…」
その言葉を聞いたとき、私はあらためて思った。本当にいい家は、縁ある人の人生を変えられる。それは、図面や坪数では測れない、〝心の風景〟を生み出す力である。
「いい家を作る」――その原点に立ち返る
自然光が入り、風が通り、抜け感のある空間。
隣家や道路からの視線を遮りながらも、家の中からは空が抜けて見える――。
プライバシーと開放感を両立した空間。
シンプルで飽きのこない、100年先も愛されるデザイン。
ホテルのスイートルームのような心地よさを持ちながら、
誰にでも手の届く価格で実現できる住宅。
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そんな理想的な家を、福井工務店が建てられるようになること。それが、私の目指す未来のカタチだ。お客様にも、社員にも、協力業者にも、関わるすべての人に寄り添える会社。縁あるすべての人が、「福井工務店に出会えてよかった」と言える会社。
それが、これから私がつくる福井工務店の姿だ。
3年後には、月1棟・年間12棟の受注を実現する。10年後には、年間36棟の受注をし、斑鳩町のシェア25%を獲得する。
そして、創業100周年を迎える40年後には、奈良県内で年間100棟を建てる会社になる。
家を建てることが大好きな大工、職人。自分の家が大好きなお客様。家を中心に、人生を豊かに生きる人たち。会社をそんな人たちが集う場所にしたい。福井工務店の着工棟数が増えるたび、幸せな家庭がひとつずつ増えていく。そう胸を張りたい。
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▼大工の誇りとは、お客様家族の笑顔を想像しながら、目の前の仕事に懸命に打ち込むこと。
▼家族の幸せとは、愛、感謝、思いやりにあふれる家庭が、家という〝宝箱〟の中で育まれること。
▼地域、地元との関係性とは、創業当初の祖父がそうであったように、〝仲間〟になっていく感覚。
福井工務店は、ただ家を建てる会社ではない。私たちは、家づくりを通して、いじめのない、差別のない、離婚のない、無視されない、バカにされない、仲間外れにされない、そんな、人間関係の悩みがない、平和な社会をつくっていきたい。ちょっと大袈裟かもしれないが、本当にそう思っている。できると信じている。
笑顔のある家庭が、街にひとつ、またひとつと増えていく。いい住空間を提供することで、幸せな家庭が増えれば、日本中すべての家庭が幸せになれば、きっと争いのない、穏やかで
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平和な社会が実現できる。家は、家族が人生を重ね、心を育て、絆を深めていく〝舞台〟でもある。だからこそ、そこで生まれる感情や時間まで、丁寧に、関係するすべての人とともに創り上げていきたい。
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創業者である祖父の想い、初代が築いてきた文化、技術を大切に守りながら…。
これまで福井工務店に家族の未来を託してくれた、すべての施主様とともに。
そして、まだ出会っていない〝これからの客様〟たちのために…。
私たちは今日も、家づくりのその先にある〝幸せ〟をお届けするために
「いい家とは何か?」という問いに、新しい答えを出し続ける。
それが私に与えられた、大きな大きな宿題だと思っている。