福井工務店 60周年記念誌
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福井工務店 60周年記念誌「幸と福と夢のある家。」本文

1964(昭和39)年、奈良県斑鳩町で創業した有限会社福井工務店。創業60周年を機に、初代 福井宗治・二代目 福井孝司・3代目 福井開人の3世代の歩みと、企業理念「幸と福と夢のある家。」の由来を一冊にまとめました。上の電子ブック(全72ページ)の本文を、章ごとにテキストで収録しています。著者:福井開人(3代目)。文字サイズを変えて読む →

はじめに

p.4–6
p.4

はじめに

幸と福と夢のある家。

福井工務店の新しい企業理念。私たちが目指す家づくりの基本となる考え方。それはどのようにして生まれたのか? そして、どんな幸・福・夢があるのか? その答えは、創業60周年記念誌ともいえるこの一冊にあります。

私の祖父、福井宗治が、この斑鳩(いかるが)の地で福井工務店を開業したのは一九六四(昭和39)年のことでした。そして気がつけば、これまで1000組以上の施主様、そのご家族の家づくりに携わらせていただき、昨年、創業60周年という節目を迎えることができました。まずもって、すべてのお客様、地域、地元の皆々様、陰に日向にお支えいただいた多くの方々に、心から感謝、御礼申し上げます。

p.5

福井工務店がこれまで歩んできた道のり。それは決して平坦、華やかなものではありませんでした。しかし3代目となる私が、改めて祖父、父の話を聞く中で感じたことは、いつもそこには変わることのない夢、信念があった。胸を張れる確かな足跡を印してきた。私にはそれを受け継ぐ使命、責任があるということです。

一方で、少子高齢化が進み、コロナ禍を経て、さらに混迷する国内外の政治、経済情勢。そして、デジタル化の進展、AIの台頭——。世の中が大きく変化する今、私たちはあらためて「家づくりの本質とは何か?」を問われています。

まだまだ浅い経験ではありますが、私も福井工務店に入社以来、多くのお客様、そのご家族とお話させていただき、また、ベテラン大工、仲間に迎えた若い職人たちと語り合いながら、「家づくりの本質」「福井工務店のこれから」について自分なりに考え、想いを巡らせてきました。そこから見えてきたのは、「お客様に喜んでいただく」「幸せな家庭の礎となる家をつくる」という極めてシンプルな目標。それはそのまま、初代、福井宗治の飾り気のない創業の原点に重なります。

p.6

時代とともに、求められる家のカタチは変化します。けれど、「大切な家族と、大切な時間を過ごす場所」という本質は変わらない。暮らしの中で小さな喜びを積み重ねていく場所。何でもない日に、家族みんなで笑い合える場所。その良さ、温もり、価値は、構造や性能、数値だけで語ることはできません。つくり手の私たちは、常にその本質を見つめ、見極め、進化し続けなければなりません。

長年ご縁をいただいているお客様、地域、地元の皆様、ともに働く先輩、仲間たちはもちろんのこと、OBの皆様、協力会社や職人仲間、さらには、未来のお客様とともに――。これからも丁寧に、心を込めて「幸と福と夢のある家」を紡いでまいります。ここに記す記録が、その道しるべ、心の支え、そして、未来のお客様と繋がる〝赤い糸〟、絆となるのであれば、これに勝る喜びはありません。

2025年8月

有限会社福井工務店 取締役 福井開人

第1章 初代 ― 福井宗治(1964年創業)

p.7–20
p.9

初代の選択――夢を追う、家族を養う

私の祖父、福井工務店の創業者、福井宗治は一九三六(昭和11)年、この斑鳩(いかるが)の地に農業を営む福井家の8人兄弟の末っ子として生まれた。祖父が大工という仕事に出会うのは15歳のとき。中学卒業後、奈良市西大寺の棟梁のもとで、給料なしの丁稚として住み込みで働くようになる。
朝は誰よりも早く起き、まずは親方家族の朝飯づくり、米炊きから始まる。暗い時間に火を起こし、炊き上がる湯気の中で、日の出を待つ。昼は、現場の掃除、道具の手入れ。大工仕事も見て学ぶ。夜は夜で、親方が床に就くと、障子の隙間から漏れる灯りを頼りに、高校受験の勉強。2年後、17歳で郡山高校の定時制、いわゆる夜学に入学する。

「早く一人前の大工になりたい」

p.10

今度は、斑鳩の棟梁に弟子入り。昼は修行、夜は学校。身体は疲れていても、「夢」という火は、心の奥で静かに燃えていた。しかし、職人の世界は厳しく、経済的な見通しも決して明るいものではない。このままでいいのか。この道で生計を立てられるのか。家族を持てるのか。不安を抱えたまま、一九五六(昭和31)年、高校卒業の時を迎える。21歳になっていた。
結局、卒業と同時に伊丹にある三菱電機の工場に就職する。叔父の勧め、紹介だった。三菱電機といえば大企業。安定した収入と社会的な信用が手に入る。私の曽祖父、曾祖母、両親も末っ子の“出世”を喜んだだろう。将来への不安で心が揺れていた祖父の目にも、工場勤めは堅実で、安心できる道に見えた。
入社後は板金課に配属され、日々、鉄板と向き合いながら、金属加工装置や補助工具の開発にも携わる。やがて、電解脱脂自動切替装置、アレスター電極の酸洗治具などに関連する発明でいくつもの表彰を受け、工場内でも一目置かれる存在になる。
だが、数年後。工場長の一言が、祖父の人生を大きく揺さぶる。

p.11

「高卒ではな、どれだけ頑張っても、これ以上は出世できんぞ」

最初は信じられなかった。ここまで人一倍、地道に努力を重ね、表彰されるほどの結果も出してきた。だが、そこには努力では超えられない学歴という壁があることを知った。25歳で結婚していた。このままで、家族を養えるのか。先が見えない。

「誰かのルールの中で生きてたら、自分の未来は誰かに決められたままや…」

葛藤の末、決断する。もう一度、「夢」を追う。自分の力で、家族を守る。27歳になったある日、何の相談もなく、妻である私の祖母に、こう告げた。

「三菱、辞めてきたわ。大工に戻る」

休みの日や仕事から戻ると、大工仕事は続けていた。結婚の翌年には、自宅建築の準備を

p.12

始め、自らの手で棟上げまで済ませていた。建築士の勉強も続けていた。とはいえ、突然の退職宣言。祖母は呆然とした。
工場勤めで収入は安定していた。しかし、蓄えなどない。しかも、その後すぐに長女が、翌年には、後に二代目となる長男、私の父が生まれた。家計は楽ではなかった。家族四人、風呂もない小さな家での暮らし。昼間は〝一人親方〟として現場で汗を流し、夜は建築士の勉強にも励んだ。
勉強といっても、今のように教材や講座などが充実しているわけではない。夕食を済ませると、祖母が参考書を開き、問題を出す。祖父がそれに答える。夫婦で、『夢』を叶えようとしていた。
筆記試験には初挑戦で合格する。しかし、製図は不合格だった。諦めることなく、かなり無理もして、東京での1週間の集中講義にも参加した。そして31歳で、やっとの思いで合格。退職、創業から4年が経過していた。
仕事も勉強同様、夫婦二人三脚だった。現場へは、原付にリヤカーを括りつけ、木材を引いて通った。作業はすべて手作業。祖父が墨付けした材木に、祖母が穴を掘る。重機などもな

p.13

い時代。太く重い梁も、すべて人力で屋根まで上げた。夫婦で〝家をつくる〟という仕事に、寝る間も惜しんで向き合っていた。棟上げまで済ませていた自宅は、部分的に完成しないまま、そのまま住むことになる。そこまで、手が回らなかったのだ。

ある日、村田様という資産家の豪邸の新築を任された。

だが、棟上げ直前に、棟木にヒビが入るという致命的なトラブルが発生する。通常なら工期は遅れる。しかし祖父は、代わりになる木を探し回り、買い付ける。夜通しで墨をつけ、丁寧に刻み、期日通りに棟を上げた。その誠実さに感動した村田様は、祖父を〝本物の職人〟と認め、さらに信頼を深めてくれた。ありがたいご縁は、現在の福井工務店にもつながっている。

祖父はいつもこう言っていた。

「自分たちがご飯を食べられるのは、施主さんのおかげや。施主さんが相手なら、たとえ頭から温かい馬の糞をかけられても、『ありがとうございます』と言える職人になら

p.14

なアカン」

頑固で、仕事には決して妥協を許さない人だ。でも、笑うのが好きで、話はいつもユーモアにあふれていた。そして、福井工務店の話をするとき、祖父は今も少年のように目を輝かせる。

p.15

一九六四(昭和39)年創業。
「夢」を追い、家族を養うために創業したこの会社の魂は、
地元の人たちのおかげで育ち、職人の誇りとともに、
今に受け継がれている。

p.16

初代の喜び ―家づくりはまちづくり

祖父が独立した60年前は、まさに、高度経済成長の真っ只中。斑鳩町でも農地が宅地に変わり始め、田んぼだった場所に家が建ち並んでいった。
福井工務店の仕事は、そうした農家さんの新築から始まった。土地を売り、現金を手にした人たちは、「立派な家を建てたい」と口を揃えて言った。祖父はその想いに応えるため、一軒一軒、丁寧に建てていった。
農家の施主さんは、家を建てている最中、自ら作業着を着て現場に現れたという。
「今日は畑もヒマやし、何か手伝おか」

p.17

笑いながら額に汗して、セメントを練ったり、廃材を運んだりした。「もうすぐわが家が完成する」。待ちきれない気持ちもあったのだろう。
農閑期になると、近所の人たちがアルバイトのように現場仕事に加わることも多かった。重機やクレーンもない時代。太い梁を屋根に上げるときは、何本ものロープをかけて、10人以上の男たちが、「せーの!」の掛け声とともに力を合わせて引き上げた。
棟上げの日は、仕事が終われば宴会だ。まだ、壁も屋根もない骨組みの下にゴザを敷き、その日、手伝ってくれたご近所さんと一緒に酒を酌み交わす。祝いの鯛や施主さんの奥さんの手料理が並ぶ。
大工たちと施主さん、近所の人たちが肩を並べ、笑い合いながら互いに酌をする。湯呑を盃代わりにして飲む冷やの酒。酔いが回れば、時には唄も出る。地元の酒屋で用意された一升瓶が次々と空いていった。
祖父の仕事ぶりを見ていた近所の人が、酒を注ぎながらこう話しかける。

p.18

「福井さん、うちのも頼むわな」「次はワシんとこや」

現場が〝営業の場〟であり、信頼がそのまま次の仕事に繋がる。スマホもネットもない時代。唯一の営業マンは、地域の人たちだった。
祖父は言っていた。

「棟を上げるのに必要なもんは、木や道具だけとちゃう。
人が集まって、初めて家は建つんや」

地域の人たちの想いがつながり、新しい家が一軒、また一軒。まちの景色も変わっていく。
まさに、「家づくりはまちづくり」といえる時代だった。

祖父が一人で決め、夫婦で始めた福井工務店は、地元の人たちの手を借りながら、地域の発展とともに育っていった。

p.19

家をつくるということは、人の気持ちと力の組み合わせ。
そして、まちをつくること。
福井工務店の根っこには、こうした想いがある。
「施主さんのために、地元のために、みんなの力で建てた」
60年の歴史は、色褪せない記憶と誇りに支えられている。

第2章 二代目 ― 福井孝司「変わらないために、変わる」

p.21–32
p.23

転換期と苦労――変わらないために、変わる

二代目となる父、孝司は、福井工務店創業の翌年、一九六五(昭和40)年に生まれた。近畿大学理工学部建築学科に進学し、一九八八(昭和63)年卒業。世はバブル景気の真っ只中。就職市場は空前の売り手市場で、理系学生は引く手数多だった。
父は、生和建設(現・生和コーポレーション株式会社)に新卒採用一期生として入社。今でこそ全国展開する大手企業だが、当時はまだ創立間もない成長期の企業であり、その年、初めて新卒採用を実施していた。
配属先は、東大阪を中心としたRC(鉄筋コンクリート)造のマンションやビルの建設担当部署。10階建て以上の大型物件も数多く抱えていた。社内にはベンチャー気質が漂い、若手にも次々とチャンスが巡ってくる。初めて担当した現場は、1億円を超える案件だった。
父はそうした企業風土、環境に魅力を感じ、仕事に情熱を燃やした。率先して現場に飛び込み、数多くの経験を積むことにやりがいを感じた。無我夢中に働いた。「24時間戦えます

p.24

か」の時代だ。
現場の最前線で、図面を片手に工程を回し、職人と渡り合い、顧客と向き合う。一方で、新入社員の代表として、企業説明会やリクルートイベントの担当にも登用されるようになる。学生たちに会社の魅力、可能性を語り、若い力を会社に呼び込む姿は、自信に満ちていた。社内でも有望株と認められる存在となっていた。このままいけば、出世は間違いない──。父の前には、順風満帆ともいえる未来が広がっていた。
しかし、心の中には、ずっとくすぶり続ける〝夢の火種〟があった。

「親父の大工の腕、木造の技術に、自分の経験、RCの知識を加えれば、福井工務店は、もっと強くなれる」

そして入社3年目、25歳の時、父親の会社に戻る決断をする。
祖父からは、こう言われたという。

p.25

「親子二代で元気に仕事ができる時、会社はいちばん繁栄するんや」

遡ること8年、創業15周年を迎えた翌年の一九八〇(昭和55)年、福井工務店は会社組織(有限会社)になっていた。夫婦二人三脚から、親子二人三脚へ。第2の創業ともいえる転機。
当初は、まさに現場漬けの日々だった。日中は設計や現場管理。夜になると、明日の大工の仕事を作るために、材を木づくりし、墨をつけた。道具や図面に囲まれながら祖父と2人、深夜まで黙々と作業に没頭する。
とはいえ、祖父は決してやさしい師匠ではない。

「俺の言う通りにせぇ」

昭和の棟梁は頑固で厳格。息子であり弟子の立場で、自分の考えを通すのは難しい。父は姉を持つ弟として育った。やさしい性格の持ち主。師匠の親父に逆らうことなどもちろん、話しかけることすら怖いと感じるときもあったという。

p.26

そんな中、父は、もう一度、設計を学び直したいと考えるようになる。設計事務所での再修行。その希望、意志を祖父に訴えたことがあった。祖父は激怒した。
「ワシの下でやれへんのやったら、出ていけ」
勘当されそうな勢いだった。結局、設計事務所への就職は諦め、黙って会社に残った。
それでも、父は努力を重ねた。昼間の業務を終えた後は机に向かい、資格試験の勉強を続けた。そして、自力で一級建築士の資格を取得する。その姿は、工場勤めを辞め、大工として建築士試験に挑んだ祖父の姿と重なる。
資格取得後、かつての経験も活かし、斑鳩町でRCマンション3棟を設計施工した。そのうちの1棟は、親戚からの依頼。会社から車で5分ほどの場所にあった。田んぼを売って得た資金で、自宅と投資物件を同時に建てるという計画。施主さんに借り入れがあるわけではない。
だから、建物の〝利回り〟、短期の利益回収を優先した設計ではなく、住む人の目線に立っ

p.27

た設計を意識することができた。
「入居者にとって、ゆとりのある、住みやすい間取りとは何か?」を第一に…。その想いが、30年経った今も「住みやすい」という評価に繋がっている。
父は、自分にできるすべてを仕事に注ぎ込んでいく。「夢」がふくらんでいた。事業を多角化し、木造住宅とRC造を両輪にして会社を発展させていく。そんな未来が、はっきりと見えていた。
しかし、その夢は、時代の転換期の中で打ち砕かれる。昭和から平成へと時代が移り、バブルが崩壊したのだ。世の中の空気が一変する。金融機関の破綻、景気低迷。その影響は、斑鳩のまちの工務店にも確実に及んだ。
かつて現金で家を建てていた農家の人たちの姿は減り、伝統的な立派な和風建築の家を建てる人は少なくなった。大工たちは、使う機会のない暇そうな鑿や墨壺を見つめながら、時代の変化を静かに受け止めるしかなかった。

p.28

そんなある日、父は今でも忘れられない光景を目にする。祖父が一冊のパンフレットを手にしていた。北欧風の輸入住宅。柔らかい外壁の色。開放感ある間取り。量産化された住宅商品の先駆けともいえるその設計に、祖父はこうつぶやいた。
「孝司、こんなんあるらしいけど、どうや?」
長年、和風建築に誇りを持ち、木を見極め、墨を付け、黙々と材木を刻んできた祖父の口から、そんな言葉が出たことに、父は大きな衝撃を受けた。「時代が変わった」のだと思い知らされた。
かつて祖父が腕を振るい、父が新たな技術を導入しながら受け継ごうとした〝手間をかけて丁寧につくる家〟は、市場から求められなくなりつつあった。それでも父は、自分のやるべきこと、進むべき道を信じていた。
日曜だけが休みだった大工、職人の仕事は、いつしか土日は休み、サラリーマンと同じ週休二日になっていった。現場がない日も増え、腕の立つ職人たちが条件のいい他所に流れて

p.29

いくこともあった。

多くの工務店が、コスト削減のために分業化や外注化に舵を切る。そんな中でも、福井工務店には、〝会社都合〟で自社大工を手放すという選択肢はなかった。祖父も父も、〝雇用を守ること〟に会社の価値があると信じていた。
家を建てるだけの会社ではなく、人を育て、地域に働く場所を残す。それが棟梁としての誇り、責任であり、福井工務店の存在意義ということだ。
父はその信念を、地道な営業努力で支え、貫いた。ご近所や知人の紹介、個人住宅が中心だった従来の仕事の枠から飛び出し、それまで手を出してこなかった民間の福祉施設などの競争入札に挑み始める。
役所に通い、設計事務所の先生と会い、書類を読み込み、案件に食らいついた。しかしそこには、常に矛盾がつきまとう。

「低価格で札を入れなければ仕事は取れない。でも、品質は絶対に落とせない」

p.30

職人、技術者としてのプライド、責任感と経営者としての現実の間で、心が擦り減るような毎日だったと、父は振り返っている。売上が落ちると、父の役員報酬は大きく下げられる。どんなに苦しくても、職人たちの給料は守らなければいけない。会社の空気は重たかっただろう。しかし、大工の首を切ることは、信頼を裏切ること。絶対に許されないと決めていた。知恵を絞り、身を削ることで利益を残し、会社を守った。
ある施設を担当する設計士が、父の仕事ぶりと自社大工の腕を見てこう言った。
「職人が木を熟知し、ここまできっちり仕事をしてくれる工務店は久しぶりだ」
後日、その設計士が福井工務店を訪れ、なんと自宅の建築を依頼してくれたのだ。父の選んだ道は間違っていなかった。見る人は見ている。苦しい時代にも祖父の教えを守り、自らの信念を貫いた末に得た信頼の証だ。
また、ある施主様はこう言ってくれた。

p.31

「自分のところの大工さんで建ててくれる工務店なので安心できる」
その言葉に父は勇気づけられる。使命感が心の支えになる。
「こうしたお客様のためにも、絶対に職人の雇用を途絶えさせてはいけない」

p.32

公共建築、リフォーム、OBからの紹介。
目立たなくても、華々しい評価を受けることがなくても、真面目に、地道に、手を抜くことなく、丁寧に。
その積み重ねが、会社を支えていた。
地域にも少しは貢献できるようになる。
時代は変化する。しかし、大工は変わることなく一生懸命、木を刻む。
現場に響き渡るその音とともに、福井工務店の創業の魂は生き続ける。

第3章 3代目 ― 福井開人「継承は、挑戦の先にある」

p.33–57
p.35

3代目誕生――継承は、挑戦の先にある

二〇〇〇(平成12)年3月5日、私、開人(かいと)がこの世に生まれる。
その日、父と祖父は、職人や協力業者とともに慰安旅行に出かけていた。
宴会場で乾杯をした直後、
「男の子が生まれたぞ!」という一報が旅館に届いた。
「おめでとう!」
宴会場には歓声が上がり、父と祖父の盃には、次々と酒が注がれる。慰安の宴会は、3代目誕生の祝賀会となる。当時若かった職人さんたちも、今ではベテラン。
「3代目誕生やな!」と声が上がったその日のことを、今でも楽しそうに、懐かしそう

p.36

に話してくれる。

開く人、開人。

「自分の人生を、自分の手で切り開いていける人になるように」

父はそんな願いを込めて名付けてくれた。幼い頃から、祖父と父の背中を見て育った。鉋が木肌をなぞり、鑿が梁を割っていく音が、毎日の暮らしの音になっていた。その姿に憧れて、「いつか大工になる」と思うことは、男の子にとって、ごくごく自然の流れだった。私が小学生になる頃に完成する二代目の自宅。その出来上がるまでの様子は、しっかりと憶えている。

その祖父と父が字通り自らの手で建てた〝わが家〟も好きだった。伝統的な日本建築。屋根では鬼瓦が睨みを利かせる。三世代が暮らすのに十分な広さだ。食事は家族全員揃って。休日になると座敷や庭は友だちたちの遊び場になる。山で捕ってきたクワガタ、カブトムシ。

p.37

川からはザリガニ、亀たち。みんな遊び相手。今の時代にはそぐわないかもしれないが、そんな平和で穏やかな原風景が、私が考える理想の家づくりの原点であることは間違いない。
大学進学を機に地元を離れ、滋賀で下宿生活を送るようになっても、長期の休みになると、迷わず実家に帰った。そして、現場に立った。羽を休めるわが家がある。父の会社、祖父の仕事の役に立てることも嬉しかった。
そして、そこには一人の特別な友人がいた。中学生の頃、毎日一緒に登下校した親友。彼もまた大工に憧れ、見習いとして福井工務店にやってきた。夏休みや冬休みは、ふたりで汗を流し、墨を付け、材を運び、祖父に叱られながらも笑い合った。
将来、私が会社を継いだとき、彼が職人として一人前になって、自分を支えてくれる。そんな未来を、心のどこかで信じていた。だからこそ、大学の勉強にも打ち込めた。『夢』があったから、頑張れた。
けれど、彼は辞めていった。祖父が守ってきた昭和のやり方――それが、彼の心には重すぎた。時代に合わない厳しさが、彼の足を、心を遠ざけた。

p.38

当時、大学生だった私は、社会の厳しさなど、まだ何も知らなかった。かけられる言葉など、何ひとつ持ち合わせていなかった。ただ、彼にあまりにも厳しく接しすぎた祖父に、電話越しに怒りの言葉をぶつけたことだけは、よく覚えている。
悔しかった。悲しかった。
彼との関係は、今でこそ修復したものの、あの時の痛みは、今も胸の奥に残っている。そして、自分が信じていた、描いていた未来が崩れたことが、苦しかった。だから思った。
「もう、誰にもこんな思いはさせたくない」
せっかく魅力のある職業なのに、育て方や関わり方次第で夢が潰えてしまうなんて、もったいなさすぎる。若い職人が、職人としての誇り、プライドを持って、胸を張って働ける会社にしたい。それが、自分がこの会社を継ぐと決めたいちばんの理由だ。
子どもの頃から高校までは野球に打ち込み、立命館宇治高校では捕手として甲子園を目指し

p.39

した。そして立命館大学に進み、二〇二三(令和5)年3月、理工学部建築都市デザイン学科を卒業する。
大学では「生産・材料研究室」に所属。神社仏閣などの「伝統木造建築の補修と維持管理」について研究し論文を書いた。独学で宅地建物取引士資格も取得した。
卒業後は、一旦、他社での修行、いわゆる〝他人の飯を食う〟ことも必要だと考え、住宅販売に強い東京の不動産デベロッパーを志望し、内定をもらう。社長が一代で築き上げた上場会社。急成長している姿、社長の人となりも魅力的に見えた。
内定者インターンとして、いきなり住宅営業の最前線へ。地価の高い東京。〝不動産〟としての住宅、資産価値に力点を置いたセールス。ビジネスモデルとしては新しいが、営業スタイルは〝昭和〟だった。〝夢や暮らし方を売る〟という自分がイメージしていた住宅販売とは違う。この会社で得るものは、自分にとってプラスではなく、マイナスになるようにも思えた。
結局、福井工務店への就職を選んだ。既に、父が祖父から社長を引き継いでいた。翌年、創業60周年を迎えるという節目の年でもあった。課題は山積みだった。職人たちの年齢層が高く、活気に欠ける。技術はあるのに、次の世代に伝わっていない。伝えるべき若手がいない。

p.40

い。営業も、採用も、情報の発信方法も、すべてが時代に取り残されていた。
このまま何もしなければ、会社はゆるやかに、確実に衰退していく。私の入社時、最年少の職人が私より25歳年上だった。親子ほどの差だ。このままでは、この人が引退する頃、会社は終わると本気で思った。
正直な気持ちを父にぶつけた。すると、意外な言葉が返ってきた。
「俺が代表でいるうちは、問題が大きくなる前に俺が尻拭いしてやる。俺はもう還暦も近いし、新しいことには疎い。でも、お前の会社になるんやから、会社の未来に必要やと思ったことは、なんでも好き放題やったらええ」
背中を押された。「俺の言う通りにしろ!」親父から抑えつけられた自分の過去を、私には味わわせたくなかったのだろう。その気持ちが、何よりもありがたかった。男として、親としてのかっこよさ。経営者としての覚悟と器の大きさを感じた。同時に、気が引き締まった。

p.41

「よし、とことんやってやろう!」。そう決意した。

第一歩は「採用」だった。学生時代に、SNSを中心としたWebマーケティングのサービスを提供する会社を友人たちと起業していた。株式会社 侍。「大企業の新卒採用」に特化したSNS運用や動画制作の営業担当取締役として実績も上げていた。この経験で培った知見を活かし、自分自身が先頭に立って情報発信を始めた。

SNSで、大工の仕事の〝リアル〟を伝える。汗の滲んだ作業着の中に隠された誇り。日に焼けた腕とともにある匠の技。木と語る静かな時間。何事にも感謝する心や技術の奥深さ、ひたむきさ、かっこよさまでを、正直な言葉と映像で紡ぎ、届けた。

狙いはただひとつ。

「この世界に飛び込みたい!」と思ってくれる若者との出会いだ。

するとある日、「会社見学に行きたい」と、一本のDMが届いた。とても素直なメッセー

p.42

ジだった。嬉しかった。けれど、正直なところ、不安もあった。父の代までは、ほとんどが身内の紹介などによる採用だった。
当然のことながら初対面。「どんな子が来るんやろ?」。父もソワソワしている。そして実際に顔を合わせたその青年は、期待以上だった。即採用だ。ベテラン職人たちは、久しぶりに入ってきた〝弟子〟を心から歓迎してくれた。父も「若くても大工になりたいと思ってくれる子がいるんやな」と表情を崩した。やり方を変えれば、新しい道は開ける。可能性が広がる。
逆に言えば、「挑戦」しなければ生き残れない。新人職人の姿を見ながら、私は改めて覚悟を決めた。もちろん、すべてを変えるつもりはない。どんな時代になろうとも、自社職人を雇い、育て、自分たちの手で家を建てるという在り方――それだけは、絶対に変えることはない。
3代目は「守り人」だと言われることがある。また、「3代目が会社を潰す」とも、よく言われる。

p.43

「3代目に生まれて羨ましい」「人生安泰だ」と、軽く冷やかされることもある。だが、私には私にしかわからない重さ、しんどさがある。それを誰かに理解してもらいたいとは思わない。わかってほしいと願うことも、もうやめた。
ただひとつ。私は、自分が信じる理想の会社を、自分のこの手でつくりたい。そしてその日まで、無我夢中に仕事と向き合うのだ。

福井工務店は創業60周年を迎えていた。とはいえ、記念事業や式典などを開催するわけではない。

私の中では、「挑戦、変化への覚悟」が60周年を記念する決断だった。

p.44

挑戦こそが、継承を成功に導く。
父の言葉を胸に、父やベテラン職人たちの想いとともに、
私は、福井工務店の未来を自分の手で切り開いていく。
それが、父が「開人」という名前に込めた想い、託した気持ちに応えることだ。
この会社の未来を切り開くことは、自分の人生を切り開いていくこと。
そしてそれは、地域や地元の人たちへの恩返しにも繋がるということを、
胸にしっかりと刻んでいる。

p.45

3代目の決断――仲間と、地域と、新しい福井工務店へ

採用活動には、引き続き力を入れていた。また、新たな若い職人が、夢を抱いて福井工務店の門を叩いてくれる。その姿に、私は確かな希望を感じた。
SNSで発信した動画を見て、やってきた青年。土木職人からの転身。私より二つ年下。初めは不安もあったが、現場での彼の姿に心を打たれた。誰よりも一生懸命、誰よりも真っ直ぐだった。
1年後には、さらに年下の若者たちが加わった。彼らもまた、ものづくりが好きで、よく働き、よく笑った。気づけば、会社に活気が生まれていた。現場には、木を刻む音とともに、若い職人たちの掛け声や笑い声が響くようになった。元気な言葉が飛び交い、笑顔が増えていった。
私は二人兄弟。妹しかいない長男だった。だから、弟ができたようで、彼らの存在が本当に嬉しかった。心から可愛がった。そして、彼らが来てくれたことで、私は現場から一歩身

p.46

を引くことができた。
彼らの将来を支え続ける「会社の器」は、まだできあがっていない。次の課題に、ようやく目を向けられるようになる。

給与や福利厚生、商品力、ネットワーク。何もかもが、足りていない。若い職人が自信と誇りを持って働ける会社でありたい。堂々と胸を張れる組織、待遇。他所とは違う、「さすが!」「なるほど!」と言われる家を建てる会社でなければならない。意識だけでなく、会社の在り方そのものに大改革が必要だった。
何より、商品としての決定的な〝強み〟がなかった。コアコンピタンスといわれる真似できない能力。ハードの質には自信を持っている。ただ、間取り、仕様、価格帯…。ソフト面から見ると、ある意味〝どこにでもある普通の家〟を建てていた。「これは売れる」「これは伝わる」と確信できる競争力のある〝武器〟を、まだ持っていなかった。
私は思った。

p.47

“時代を先取りするような、住む人がワクワクするような、もっとカッコいい家”をつくらないといけない。
もっと暮らしやすくて、もっともっと、人の心に響く家をつくりたい。

一方で、国連が二〇三〇年を目標とするSDGs(持続可能な開発目標)を掲げたこともあり、住宅にもより進んだ性能、思想が求められるようになっていた。自分たちだけでどこまでできるのか。一度は、名前の売れているフランチャイズに加盟しようかと、真剣に検討もしてみた。でも、どこか腑に落ちない。
そうしたとき出会ったのが、4DGROUNDWORK の塚本光輝社長だ。きっかけは、オンラインで参加したあるセミナー。その中で彼が語った内容に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「デザインの原理原則に基づいた、カッコよくて暮らしやすい家を、分譲住宅のような価格で一般顧客層に届けたい」

p.48

その言葉に、強く共感した。私が感じていたモヤモヤを、すべて言語化してくれていた。

「今の住宅業界は、効率と利益を優先するあまり、〝本当にいい家〟を届ける力を失っている」

それに対し塚本社長は、既に20年前から、ハウスメーカー・建築家・工務店、それぞれの〝いいとこ取り〟を実践。機能性・デザイン性・コストパフォーマンスを兼ね備え、圧倒的な競争力を持つ家を市場に送り出していた。

「この人と仕事がしたい」

そう思った私は、オンラインセミナーの質疑応答の時間に挙手し、その場で「会いに行きたい。直接話がしたい」と申し出た。塚本社長は驚いた様子だったが、快く応じてくれた。
メッセージのやり取りを経て、1週間後、二〇二四(令和6)年3月3日。私は東京行の

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新幹線に乗り込む。目指すは、浅草にある4DGROUNDWORK のオフィスだ。
持参したのは、自社が取り扱う土地分譲の計画、現在進行中のプラン。未来に繋がる何かが生まれる予感。全部さらけ出そうと思っていた。
ひと通り話が終わった後、塚本社長はこう言ってくれた。

「こんなに若くて、やる気のある子は久しぶりだ。
設計も教えるし、お客様との打ち合わせの席にも出よう。
一緒にやろう。奈良でいちばんカッコいい家を建てる工務店になろう。
1〜2年後には、君も僕と同じプレゼンができるようになっているはずだ」

嬉しかった。そして、自分自身に誓った。
この人と一緒に、未来を変えたい。絶対に変えてやる。
それは、これから出会う、まだ見ぬお客様、施主様家族の未来。そして、私を信じて付いてきてくれるこの会社のメンバーたちの未来だ。

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協業にあたり、塚本社長はこうも言った。
「まずは君と僕が、何をしようとしているかを、みんなに知ってもらおう。
理解、共感を得て、応援してもらわなきゃいけない。
君の大事な人を集めてくれ。僕が奈良まで行って、プレゼンするから」
私はその言葉に応えた。お客様、協力会社、職人さん、知人、友人。3週間で、36人を集めた。定員30人の会場には、立ち見も出た。
大盛況だった。会場の空気は熱気に満ち、真剣に耳を傾けてくれる人たちの眼差しに、私は心を動かされた。
「みんなが応援してくれている」。胸が、身体が熱くなる瞬間だった。
そしてその日、私たちは宣言した。
「4D/STUDIO NARA」として、ここ奈良の地で新しい家づくりを始める。

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ただの業務提携ではない。思想と設計、地域と人、すべてを融合させる。宣言は、塚本光輝、福井開人、互いの決意、覚悟の意思表明だった。
私はその日から、「いい家とは何か?」という問いに、真正面から向き合うようになる。それは、会社に、私に与えられたミッションの再定義の始まりでもあった。
セミナーの参加者の一人に、仲介会社から紹介されたK様という30代のご夫婦がいらっしゃった。もともと地元エリアで住まいを探しておられ、いわゆる「普通の家でいい」と考えているご夫婦だった。私が直接お声がけし、セミナーにご参加いただいた。終了後、事務所でヒアリングを行ったとき、K様はこう言ってくださった。
「自分たちは本当に運がいいと思っています。仲介会社さんを通じて、福井さんと塚本さんに出会えたことが、何よりのご縁です。今日の話を聞いて、これからの家づくりがとても楽しみになりました」
ご契約をいただき、K様の家づくりが始まった。私たちがご提案したのは、塚本さんが

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ずっと大切にしてきた思想。「明るくて、抜け感のある住空間」0LDKに隣接する中庭には、小さな紅葉の木を一本植えた。
家の中に居ながらも、季節の変化を感じられるように――。冬にお引き渡ししたとき、その紅葉は葉を落としていた。
少しの時が流れ、春が来たある日。ちょうど、小さな紅葉に青い葉が生い茂る頃。K様から、嬉しいご連絡をいただいた。

「最近、家にいて、雨の日が楽しみになったんです。中庭の紅葉が雨に打たれている姿が、とても美しい。その様子をリビングから見るのが、本当に楽しみなんです」
その声からは、静かな感動、確かな満足を感じ取ることができた。自然と暮らしが寄り添い、ただ〝住む〟を超えて、〝愛おしく思える日常〟がそこにある。
まだ、秋は一度も迎えていない。K様は言った。

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「今度は、中庭の紅葉が赤く染まるのが楽しみで、楽しみで…」
その言葉を聞いたとき、私はあらためて思った。本当にいい家は、縁ある人の人生を変えられる。それは、図面や坪数では測れない、〝心の風景〟を生み出す力である。

「いい家を作る」――その原点に立ち返る

自然光が入り、風が通り、抜け感のある空間。
隣家や道路からの視線を遮りながらも、家の中からは空が抜けて見える――。
プライバシーと開放感を両立した空間。
シンプルで飽きのこない、100年先も愛されるデザイン。
ホテルのスイートルームのような心地よさを持ちながら、
誰にでも手の届く価格で実現できる住宅。

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そんな理想的な家を、福井工務店が建てられるようになること。それが、私の目指す未来のカタチだ。お客様にも、社員にも、協力業者にも、関わるすべての人に寄り添える会社。縁あるすべての人が、「福井工務店に出会えてよかった」と言える会社。
それが、これから私がつくる福井工務店の姿だ。
3年後には、月1棟・年間12棟の受注を実現する。10年後には、年間36棟の受注をし、斑鳩町のシェア25%を獲得する。
そして、創業100周年を迎える40年後には、奈良県内で年間100棟を建てる会社になる。
家を建てることが大好きな大工、職人。自分の家が大好きなお客様。家を中心に、人生を豊かに生きる人たち。会社をそんな人たちが集う場所にしたい。福井工務店の着工棟数が増えるたび、幸せな家庭がひとつずつ増えていく。そう胸を張りたい。

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▼大工の誇りとは、お客様家族の笑顔を想像しながら、目の前の仕事に懸命に打ち込むこと。

▼家族の幸せとは、愛、感謝、思いやりにあふれる家庭が、家という〝宝箱〟の中で育まれること。

▼地域、地元との関係性とは、創業当初の祖父がそうであったように、〝仲間〟になっていく感覚。

福井工務店は、ただ家を建てる会社ではない。私たちは、家づくりを通して、いじめのない、差別のない、離婚のない、無視されない、バカにされない、仲間外れにされない、そんな、人間関係の悩みがない、平和な社会をつくっていきたい。ちょっと大袈裟かもしれないが、本当にそう思っている。できると信じている。
笑顔のある家庭が、街にひとつ、またひとつと増えていく。いい住空間を提供することで、幸せな家庭が増えれば、日本中すべての家庭が幸せになれば、きっと争いのない、穏やかで

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平和な社会が実現できる。家は、家族が人生を重ね、心を育て、絆を深めていく〝舞台〟でもある。だからこそ、そこで生まれる感情や時間まで、丁寧に、関係するすべての人とともに創り上げていきたい。

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創業者である祖父の想い、初代が築いてきた文化、技術を大切に守りながら…。
これまで福井工務店に家族の未来を託してくれた、すべての施主様とともに。
そして、まだ出会っていない〝これからの客様〟たちのために…。
私たちは今日も、家づくりのその先にある〝幸せ〟をお届けするために
「いい家とは何か?」という問いに、新しい答えを出し続ける。
それが私に与えられた、大きな大きな宿題だと思っている。

3代目の物語 ― 企業理念「幸と福と夢のある家。」

p.58–71
p.58

3代目の物語――幸と福と夢のある家

東京での不動産内覧の合間。ふとスマホを確認すると、1件の不在着信があった。A様のお父様――「息子家族の自宅新築ため、孫のために」と、資金を提供し、土地の名義人になってくださった方だ。
数ヵ月前に済ませた契約手続きが頭をよぎる。何か不備でもあったのだろうか。いや、建物の引き渡しは完了し、外構工事に移る段階だ。すぐに折り返した。電話口の向こうで、お父様は泣いていた。
「孫が亡くなりました」
そう一言、声を震わせながら告げられた。言葉が出なかった。ただ、涙が出た。
前日、現場で外構工事の打ち合わせをしたばかりだった。ご夫婦と3歳のお姉ちゃん、そ

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して生後6ヵ月の赤ちゃん。お母さんの抱っこ紐の中でスヤスヤと眠っていた、あの赤ちゃんが…。
「庭の土間のコンクリートに、家族4人の手形を残したいんです」
お母さんからそうお願いされていたことを思い出した。
「…病院にいます。原因はまだわかりません。突然死だと医師に言われました」
お母さんは取り乱していて、とても話せる状態じゃないという。当然だろう。ただ、家族の手形のことは気にしておられるとのこと。
「あの子が確かにここで生きていた」という証を、この家に残してあげたい。でも、どうすればいいのか…。何かいい方法はありませんか?」

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初めてのことだった。何も思いつかない自分が悔しかった。でも、何か役に立ちたい、立たなければと思った。

「…ご遺体には、まだ会えますか?」
自然と、その言葉が口をついた。

「明日の夕方、家に連れて帰ります。翌日に家族で葬儀をして火葬します」

明日しかない、そう思った。電話を切って、しばらく動けなかった。気づいたら、帰りの新幹線を予約していた。東京の打ち合わせ相手には事情を説明し、深くお詫びをして、帰路についた。
気分は重かった。どんな顔をして行けばいいのか。なんて声をかければいいのか。本音を言えば、行きたくなかった。でも、人生に一度の家づくりを任せてもらった責任がある。お

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客様の人生に寄り添うと決め、この仕事を選んだ。できることは全部やろう。そう決めた。
翌日夕方。玄関のチャイムを鳴らすと、ご主人がすぐに出てきてくれた。その奥から、お父様も顔を出し、丁寧に頭を下げてくださった。

「ありがとうございます」

そう言って静かに、私をリビングへ案内してくれた。工事の打ち合わせで何度も訪れた場所だったのに、まるで初めて来たような感覚だった。
リビングには、親戚の方々も集まっていた。誰かが台所でお茶を淹れ、別の誰かが子どもたちに声をかけていた。みんな、あたたかい空気を壊さないように、自然に、静かに、笑っていた。今思えば、私に気を遣って、気丈に振る舞ってくれていたのだろう。
私は、持参したコンクリートの入った箱を、リビングの真ん中に置いた。赤ちゃんは、小さなゆりかごの中で眠っていた。まるで天使のように穏やかな顔だった。
お母さんが、そっと赤ちゃんの手を取り、足を取り、型をつけてくれた。お父さんとお母

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さん、3歳のお姉ちゃんも、それぞれ丁寧に押し当てた。
「上手にできたね〜」
お母さんが、お姉ちゃんに、赤ちゃんに、やさしく声をかける。いつも通りの、穏やかで、やさしい空気が流れていた。
「しばらくベランダで乾かしておいてください。
数日たって固まった頃に、私が引き取りに来ます」
そう伝えると、ご主人は何度も頷いてくれた。
リビングで、みんなで写真を撮った。お母さんは涙ぐみながらも、しっかりと笑顔を浮かべていた。お姉ちゃんが、小さな声で「ありがとう」と言った。
玄関を出ると、お祖父様が駐車場まで見送りに来てくれた。

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「本当にありがとう。親戚一同、みんな感謝しています。
あなたにお願いして本当によかった」

その言葉に、私の目にも涙がにじんだ。

帰りの車の中で、ずっと考えていた。私はこの家族に、何を届けたいのか。そして「家」とは、一体なんなのか。ふと、社名の入った名刺に目が留まった。福井工務店の「福」。ひとつ屋根の下で笑い合う家族の姿をイメージしてつくったロゴだ。

「笑う門には福来る――」

たとえ、どんなにつらい出来事が起こっても、どんな悲しみに襲われたとしても、家族の物語は続く。みんなで支え合えば、また笑い合える日が、きっと来る。そう信じて、そんな願いを胸に、私は施主様の家づくりと向き合っている。

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でも、ただ信じ、願っているだけでは足りない。心許ない。「幸せになってほしい」という想いを、本当に形にするためには、もっと明確に、言葉として定義しておく必要がある。そして想いの実現に向け、福井工務店の家づくりに携わるすべての人がその言葉を共有し、お客様にもお伝えし、常に自分たちの在り方を問い直し続ける指標にもしなければいけない。
アメリカの精神科医ウイリアム・グラッサー博士によって提唱された心理学、グラッサー博士の選択理論「幸せな人間関係を築くために」というタイトルの本を、いつも会社の机の脇に置いている。
「すべての感情と行動は自らが選び取っている!」
人間関係のメカニズムを解明し、上質な人生を築くためのナビゲーターといわれる理論。読むのにもひと苦労する分厚い一冊。むつかしい内容だが、簡単に言うと、「相手とコミュニケーションを取る際、その人の基本的な欲求の強い部分を知り、それを満たされるように

p.65

関わると人間関係はうまく進む」ということだ。

基本的欲求とは、
①生存の欲求(Survival)
②愛・所属の欲求(Love & Belonging)
③力の欲求(Power)
④自由の欲求(Freedom)
⑤楽しみの欲求(Fun)

私たちの行動は、ほとんど自ら選択したものであり、人間はこの5つの基本的欲求を満たすために、遺伝子によって内側から動機付けられていると説いている。
この理論を私なりの解釈で、「幸せになってほしい」という想いの実現、福井工務店の家づくりに当てはめてみた。かなり乱暴なこじつけかもしれない。気恥ずかしくもある。ただ、自分では、「幸せになってほしい」と願う福井工務店の家づくり理論」だと思っている。グ

p.66

ラッサー博士の高尚な見識、理論には程遠いが、平易で誰にも理解していただける内容にしたつもりだ。
「幸」「福」「夢」という三文字で整理し、まとめた。

p.67

「幸」心が安らかであること

ぐっすり眠れる、くつろげる家。経済的にも、健康面でも、とりたてて不安のない日々。笑顔が絶えない。言いたいことを何でも言えて、どんな自分でも、温かく包んでくれる、受け止めてくれる家族がいる。ちょうどいい家。ほどよい家族関係。それは「心の平和」そのものだ。
選択理論でいう「生存の欲求」と「愛・所属の欲求」。その2つが満たされたとき、人は〝心安らかな状態〟になれる。
そんな家、家族の在り様を理想に掲げる、家族全員参加の家づくり。
私はそれを「幸」と呼ぶことにした。

p.68

「福」とは、感謝、満足、希望

「この家でよかった」「運もよかった。ラッキーだったね」「自分の選択に間違いはなかった。納得できる」「思い描いた暮らしができている」「趣味も増えそう…」「また明日が来るのが待ち遠しいね…」そんなふうに、毎日、自分自身を肯定しながら、希望をもって、まわりにも感謝しながら生きていく。

選択理論でいえば、「力」「自由」「楽しみ」の欲求が満たされた状態。ワクワクしながら間取りを決め、インテリアを選ぶ。理想の暮らしを思い描き、心をときめかせながら、その未来図に一歩一歩近づいていく。

私はそれを「福」と呼ぶことにした。

p.69

そして「夢」が「幸」「福」をさらに広げる

初代の祖父、二代目の父が、「夢」を求めたから、今の福井工務店がある。3代目の私がいる。
家は、家族が小さな夢を語り合える、大きな夢を分かち合える場所であってほしい。「世界一のお金持ちになりたい」とか「有名人になりたい」とか、そんな夢じゃなくていい。そうであったとしてもいい。
「夢」のカタチはいろいろ。毎日の暮らしの中にも、家の中にも「夢」はある。子どもたちの入学式や卒業式は、おじいちゃん、おばあちゃんも呼んで、みんなでお祝いしよう。誕生日、結婚記念日は、必ず、わが家で家族パーティ。毎年、元旦の朝は、玄関前で記念撮影。わが子の成人式の朝は、晴れ着姿、晴れの表情で…。部活の大会で優勝したり、運動会で頑張ったり、コンクールで入賞したり、志望校に合格したり、昇進、資格試験に合格したり、おめでたいことがあれば、いつだって、家族で乾杯♡ずっとずっと、いつまでも…。ときに

p.70

は、残念会も、みんなで…。そんな日々の暮らしの中にある小さな夢、明日への希望を、〝家〟
という宝箱の中で、ひとつひとつ実現してほしい。その喜びを声に出して、笑い合って、
たくさんの思い出を残してほしい。

選択理論の基本は、「自らの行動を選択できるのは自分だけ」ということだ。

家づくりは、一人ひとりの、自由な、素敵な選択の積み重ね。家族の合作。明日への夢の
実現。そのお手伝いをするのが福井工務店の役割だ。

p.71

「幸」と「福」のある家で暮らしていれば、「夢」は必ず叶えられる。
「夢」が叶えば、「幸福」は、さらに広がる、大きくなる。
「今の家」をつくるんじゃない。「家族の未来」をつくっているんだ。

お客様が、ご家族が、みんなが「幸せになれますように♪」と願いながら、
お一人おひとりの「夢」を叶える家づくり。
それが福井工務店3代目、福井開人の「幸福」「夢」であり、
創業100年に向けたミッションだと肝に銘じている。

福井工務店を育ててくれたお客様、地元の人たちの想いも胸に、これからも。

あとがき・奥付 ― 創業100年に向けた新たな一歩

p.72–72
p.72

1964—2064

創業 100 年に向けた新たな一歩

一夢、挑戦。変化への覚悟一
初代 福井宗治一二代目 孝司一3代目 開人

2025年12月1日発行

発行

有限会社 福井工務店
〒 636-0123
奈良県生駒郡斑鳩町興留一丁目 6 番 31 号
電話 0745-74-5303
https://www.fukuikoumuten.com

編集協力

cocorone, Inc. 山口義房

DTP・印刷・製本

株式会社 メデューム

@2025 Fukui Koumuten, Ltd.

本文は冊子(2025年発行)をそのまま収録しています。人物の肩書き・年齢・数値は冊子発行時点のものです。© 有限会社福井工務店 fukuikoumuten.com